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【総序】

統一原理 総 序

人間は、何人といえども、不幸を退けて #幸福 を追い求め、それを得ようともがいている。

 個人のささいな出来事から、 #歴史 を左右する重大な問題に至るまで、

すべては結局のところ、等しく、 幸福 になろうとする生の表現にほかならないのである。

 

 それでは、 幸福 はいかにしたら得られるのであろうか。

人間はだれでも、自己の #欲望 が満たされるとき、 #幸福 を感ずるのである。

 しかし 欲望 などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。 

というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい #生活環境 の中に、我々は生きているからである。


しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。

 人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、

悪に向かおうとする欲望を退け、

 善を指向する欲望に従って、

本心の喜ぶ 幸福 を得ようと必死の努力を傾けているのである。

 これこそ正に、死の暗闇を押しのけて、命の光を探し求めながら、つらく、険しい人の道を彷徨する偽らざる #人生 の姿なのである。


いったい、不義なる欲望のままに行動して、

 本心から喜べるような #幸福 を味わい得る人間がいるであろうか。

このような欲望を満たすたびごとに、

 人間はだれしも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。

その #子供 に悪いことを教える父母がいるであろうか。

 その子弟を不義に導く #教師 がいるであろうか。

だれしも悪を憎み、善を立てようとするのは、万人共通の #本心 の発露なのである。

 

 とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、

善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、

 ほかならぬ #修道者 たちの生活である。


しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。

 それゆえ、 #聖書 には

「 #義人 はいない、

 ひとりもいない。

悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ三・10、11)

 と記されているのである。


 また人間のこのような悲惨な姿に直面した #パウロ は

「わたしは、内なる人としては神の #律法 を喜んでいるが、

 わたしの肢体には別の律法があって、

わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、

 そして、肢体に存在する #罪 の #法則 の中に、

わたしをとりこにしているのを見る。

 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ七・22〜24)

と慨嘆したのであった。


 ここにおいて、我々は、

#善の欲望 を成就しようとする #本心の指向性 と、

 これに反する #悪の欲望 を達成させようとする #邪心の指向性 とが、

同一の個体の中で

 それぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、

人間の #矛盾性 を発見するのである。


 存在するものが、いかなるものであっても、

それ自体の内部に #矛盾性 をもつようになれば、 #破壊 されざるを得ない。

 したがって、このような #矛盾性 をもつようになった人間は、正に #破滅状態 に陥っているということができる。


 ところで、このような人間の #矛盾性 は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。

なぜかといえば、

 いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。

もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、 #運命 的な存在であったとすれば、

 生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。

 

したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、 #後天的 に生じたものだと見なければなるまい。

 人間のこのような #破滅状態 のことを、キリスト教では、

 #堕落 と呼ぶのである。

 

 このような観点から見るとき、我々は、

人間は #堕落 したのだという結論に到達する。


 と同時に、だれしもこの結論に対しては反駁する余地がないということをもまた知るのである。


人間は、このように #堕落 して #自己破滅 に瀕しているということを知っているがゆえに、

 #邪心 からくる #悪の欲望 を取り除き、

本心から生じてくる #善の欲望 に従って、

 一つの #目的 を #指向 することによって、

それ自体の #矛盾性 を除去しようと、必死の努力をしているのである。


 しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、

善と悪とがそもそもいかなるものなのかという問題を解くことができずにいるのである。


 例えば、 #有神論 と #無神論 とについて考えるとき、

二つのうちいずれか一つを #善 と見なせば、他の一つは #悪 ということになるのであるが、

 我々はいまだどちらが正しいかということに対する絶対的な #定説 をもっていないのである。


 いわんや、人間は、 #善 の欲望を生ぜしめる #本心 というものがそもそもいかなるものなのか、

また、この本心に反して #悪 の欲望を起こさしめる #邪心 というものがいったいどこから生じてくるものなのか、

 さらにまた、人間にこのような #矛盾 性 をもたしめ、

破滅を招来せしめるその #根本原因 はいったい何なのかなどという問題に対しては、全く無知なのである。


 それゆえ、我々が #悪 の欲望を抑え、 #善 の欲望に従い、

本心が指向する善の生活をなすためには、

 この無知を完全に克服して、 #善悪 を判別できるようにならなければならないのである。

 

 人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、

我々人間が #無知に陥った ということを意味するのである。


 ところで、 #人間 は、 #心 と #体 との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。

したがって、 #無知 にも、 #内的な無知 と #外的な無知 との二種類がある。


 内的な無知とは、 #宗教 的にいえば、 #霊的 無知をいうのであって、

人間はどこから来たのか、 #生の目的 とは何か、 #死後 はいったいどうなるのか、

 更に進んで、 #来世 や #神 などというものは果たして存在するのか、

また既に述べたように、善とか悪とかいうものはいったい何なのか

 などという問題に対する無知をいうのである。


 また、もう一つの #外的な無知 とは、

人間の肉身をはじめとする #自然界 に対する無知をいうのであり、

 すべての #物質 世界の #根本 は何であるか、

また、それらのすべての現象は各々どのような #法則 によって生ずるのか、

 という問題などに対する無知をいうのである。


#人間 は有史以来今日に至るまで、休むことなく、無知から知へと、無知を克服しようとして #真理 を探し求めてきた。

 その際、 #内的無知 を克服して #内的知 に至る道を見いだすべく #内的真理 を探求してきたのがすなわち #宗教 であり、

#外的無知 を克服して #外的知 への道を見いだすべく #外的真理 を探求してきたのが #科学 なのである。


 このような角度から理解すれば、 #宗教 と #科学 とは、 #人生 の両面の #無知 を克服して両面の #知 に至る道を見いだすべく両面の #真理 をそれぞれ探求する手段であったということを知ることができるのである。


 それゆえに、人間がこのような無知から完全に解放されて、

#本心 の欲望が指向する善の方向へのみ進み、

#永遠 の #幸福 を獲得するためには、

 #宗教 と #科学 とが統一された一つの課題として解決され、 #内外両面 の #真理 が相通ずるようにならなければならないのである。

 

実際の人生の行路において、 #人間 が歩んできた過程を二つに大別してみると、

 その一つは、物質による結果の世界において、 #人生 の根本問題を解決しようとする道である。

このような道を至上のものと考えて歩んできた人々は、極度に発達した科学の前に屈伏し、

 #科学 の万能と物質的な幸福とを誇りとしている。


 しかし人間は、果たして、このような肉身を中心とした外的な条件のみで、完全なる #幸福 を得ることができるであろうか。

科学の発達が極めて #安楽 な社会環境を築き、しかもその中において、人間が、極度の富貴と栄華とを楽しむことができるとしても、

 これだけで、果たして人間のその内的な #精神的欲求 までも、完全に満たし得るであろうか。


肉身の快楽にふける俗人の喜びと、清貧を楽しむ道人の喜びとは、全く比べものにならない。


 王宮の栄耀栄華をかなぐり捨てて、心の住み家を探し求め、所定めぬ求道の行脚を楽しむのは、 #釈迦 一人に限ったことではない。


心があって初めて完全な人間となり得るように、

 #喜び においても、心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなるのである。


 今ここに肉身の #快楽 を求めて、科学の帆を揚げ、 #物質 世界を航海する一人の船頭がいるとしよう。

彼が理想とするその岸に到達したとする。

 しかし、同時にそこが彼の肉身を埋めねばならない #墓場 であるということを彼は知るに至るであろう。


 それでは、 #科学 が真に行くべきところはどこであろうか。

今までの科学の研究対象は、 #内的 な原因の世界ではなく、 #外的 な結果の世界であった。

 本質の世界ではなくして、現象の世界であった。


 しかし、今日に至っては、 #科学 の対象は、外的な結果的な現象の世界から内的な原因的な本質の世界へと、

その #次元 を高めなければならない段階に入ってきているのである。


 ゆえに、その原因的な #心霊世界 に対する論理、

すなわち #内的 な真理なくしては、結果的な実体世界に対する科学、

 すなわち #外的 な真理も、その究極的な目的を達成することはできないという結論を得るに至ったのである。


 今や、科学の帆を揚げて外的な #真理 の航海を終えた船頭が、

今また一つ #宗教 の帆を掲げて、

 内的な真理の航路へとその舳先を変えるとき、

ここに初めて本心が指向する理想郷へと航海を進めていくことができるのである。

 

 人間が歩んできたいま一つの過程は、

結果的な #現象 世界を超越して、

 原因的な本質世界において、人生の根本問題を解決しようとする道であった。

この道を歩んできたこれまでの #哲学 や #宗教 が多大の貢献をなしたことは事実である。

 しかしながらその反面、

それらが我々にあまりにも多くの精神的な重荷を負わせてきたということも、また否定することのできない事実であろう。

 #歴史 上に現れたすべての哲人、聖賢たちは、

#人生 の行くべき道を見いだすべく、それぞれその時代において、先駆的な #開拓 の道に立たされたのであるが、

 彼らが成し遂げた業績はすべて、今日の我々にとってはかえって重荷となってしまっているのである。


このことについて我々はもう一度冷静になって考えてみる必要があるのではなかろうか。


 #哲人 の中のだれが我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。

聖賢の中のだれが #人生 と #宇宙 の #根本問題 を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。

 彼らが提示した #主義 や #思想 は、むしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の #懐疑 と、数多くの課題とを提起したにすぎなかったのである。


そうして、あらゆる宗教は、

 暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの #心霊 の行く手を照らしだしていた #蘇生 の光を、

時の流れとともにいつしか失ってしまい、

 今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しく照らしているにすぎないのである。

 

 すべての人類の救済を標榜して、二〇〇〇年の歴史の渦巻の中で成長し、今や世界的な版図をもつようになった #キリスト教 の #歴史 を取りあげてみよう。

#ローマ帝国 のあの #残虐無道 の #迫害 の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、

 #ローマ人 たちをして、 #十字架 につけられた #イエス の死の前にひざまずかせた、あの #キリスト の精神は、

その後どうなったのであろうか。

 悲しいかな、 #中世封建社会 は、 #キリスト教 を生きながらにして埋葬してしまったのである。


この墓場の中から、新しい命を絶叫する #宗教改革 ののろしは空高く輝きはじめたのであったが、

 しかし、その光も激動する暗黒の波を支えきることはできなかった。


 #初代教会 の #愛 が消え、 #資本主義 の財欲の嵐が、全 #ヨーロッパ の #キリスト教社会 を吹き荒らし、

飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく

 地から聞こえてきたのであった。

これがすなわち #共産主義 である。


 #神の愛 を叫びつつ出発した #キリスト教 が、

その叫び声のみを残して #初代教会 の残骸と化してしまったとき、

 このように #無慈悲 な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻 す者たちが現れたとしても無理からぬことである。

このようにして現れたのが #唯物思想 であった。

 かくして #キリスト教社会 は #唯物思想 の #温床となったのである。

共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。


 彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの #理論 を克服できる #真理 を提示し得なかったキリスト教は、

#共産主義 が自己の懐から芽生え、育ち、

 その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。


 これは甚だ寒心に堪えないことであった。

のみならず、すべての人類はみな同じ #父母 から生まれた #子孫 であるという #教理 に従って、

 それを教え、

かつ信じている #キリスト教 国家の国民たちが、

 #皮膚の色 が違うというただそれだけの理由をもって、

その #兄弟 たちと生活を同じくすることができないという現実は、

 #キリスト のみ言に対する実践力が失われ、

灰色に塗られた墓場のごとく形式化してしまった現下の #キリスト教 の実情を、

 そのまま浮き彫りにする代表的な例だということができよう。

 

 しかし、このような #社会的 な #悲劇 は、人間の努力いかんによって、あるいは終わらせることができるかもしれない。


けれども、人間の努力をもってしては、いかんともなし得ない社会悪が一つある。

 それは、 #淫乱 の弊害である。


キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われているのであるが、

 しかし、今日のキリスト教社会が、現代人が陥っていくこの淪落への道を防ぐことができずにいるということは、何よりもまた嘆かわしい実情といわなければなるまい。

 

今日のキリスト教が、そのような世代の激流の中で、

 混乱し、分裂し、

背倫の渦の中に巻きこまれていこうとする数多くの命に対して、

 手を束ねたまま何らの対策をも立てることができないというこの現実は、いったい何を意味するのであろうか。

 それは、従来の #キリスト教 が、現代の #人類 に対する #救いの摂理 において、いかに無能な立場に立っているかという事実を如実に証明するものと見なければならないのである。

 

 それでは、 #内的な真理 を探し求めてきた #宗教 人たちが、

その本来の使命を全うすることができなくなった原因は、いったいどこにあるのだろうか。


 #本質 世界と #現象 世界との関係は、

例えていうならば、 #心 と #体 との関係に等しく、

 #原因 的なものと #結果 的なもの、

#内的 なものと #外的 なもの、

 そして、

#主体的 なものと #対象的 なものとの関係をもっているのである。


 #心 と #体 とが完全に一つになってこそ完全なる #人格 をつくることができるように、

#本質 と #現象 との二つの世界も、それらが完全に合致して初めて、 #理想世界 をつくることができるのである。


 それゆえ、心と体との関係と同じく、

#本質世界 を離れた #現象世界 はあり得ず、

 現象世界を離れた本質世界もあり得ないのである。


したがって、 #現実 を離れた #来世 はあり得ないがゆえに、

 真の #肉身 の #幸福 なくしては、その #心霊的 な #喜び もあり得ないのである。


しかしながら、今日までの #宗教 は #来世 を探し求めるために、 #現実 を必死になって否定し、

 心霊的な #喜び のために、肉身の #幸福 を蔑視してきたのである。


しかしながら、いかに否定しようとしても否定できない現実と、

 離れようとしても離れることができず

影のように付きまとう #肉身 的な #幸福 への #欲望 が、執拗に #修道者 たちを #苦悩 の谷底へと引きずっていくのである。


 ここにおいて、我々は、

 #宗教 人たちの #修道 の生活の中にも、このような #矛盾性 のあることを発見するのである。

 このような矛盾性を内包した修道生活の #破滅 、これがとりもなおさず今日の宗教人たちの生態なのである。

このように、自家撞着を打開できないところに、現代の宗教が無能化してしまった主要な原因があると思われるのである。

 

 さて、宗教が、このような #運命 の道をたどるようになったのには、更にもう一つの重要な原因があるのである。

それは、 #科学の発達 に伴い、

 人間の #知性 が最高度に啓発された結果、

現代人はすべての事物に対して科学的な認識を必要とするようになったにもかかわらず、

 旧態依然たる宗教の教理には、 #科学的な解明 が全面的に欠如しているという事実である。


すなわち、既に述べたように、

 #内的な真理 と #外的な真理 とが、いまだに一致点に到達できていないというところに、その原因があるのである。


宗教の #究極的な目的 は、

 まず心をもって信じ、

それを実践することによって初めて達成されるのである。


 ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。

我々が #聖書 を研究するのも、結局は #真理 を知ることによって #信仰 を立てるためであり、

 #イエス が様々の #奇跡 を行われたというのも、

彼が #メシヤ であることを知らせて、信じさせるためであった。


ここにおいて、知るということは、すなわち、認識するということを意味するのであるが、

 人間は、あくまでも #論理的 であると同時に、

#実証的 なもの、

 すなわち #科学的 なものでなければ、 #真 に #認識するということはできないので、

結局、宗教も科学的なものでない限り、

 よく知ってそれから #信ずる ということが不可能となり、

宗教の目的を達成することはできないという結論に到達するのである。


 このように、 #内的真理 にも #論証的 な解明が必要となり、

宗教は長い歴史の期間を通じて、

 それ自体が科学的に解明できる時代を追求してきたのである。

 

 このように、 #宗教と科学 とは、 #人生 の両面の #無知 を打開するための使命を、各々分担して出発したがゆえに、

その過程においては、それらが互いに衝突して、妥協し難い様相を呈したのであるが、

 人間がこの両面の無知を完全に克服して、本心の要求する #善の目的 を完全に成就するためには、

いつかは、科学を探し求めてきた宗教と、宗教を探し求めてきた科学とを、 #統一された一つの課題として解決する ことのできる、 #新しい真理 が現れなければならないのである。

 

 #新しい真理が現れなければならない という主張は、

宗教人たち、特に #キリスト教信徒 たちにとっては、理解し難いことのように思われるかもしれない。

 なぜなら、彼らは、彼らのもっている #聖書 が、それ自体で #完全無欠 なものだと考えているからである。

もちろん、 #真理は唯一 であり、 #永遠不変 にして、 #絶対的 なものである。


 しかし、 #聖書 は #真理それ自体 ではなく、

#真理を教示してくれる一つの教科書 として、

 #時代 の流れとともに、漸次高められてきた #心霊と知能の程度に応じて 、 #各時代の人々に与えられた ものであるために、

その真理を教示する #範囲 とか、

 それを表現する程度や #方法 においては、

時代によって変わらざるを得ないのである。


 したがって、我々はこのような性格をもっている #教科書 そのものを、 #不動 のものとして #絶対視 してはならないのである(前編第三章第五節参照)。


既に述べたように、

 #人間 がその #本心の指向性 によって #神 を求め、

#善の目的 を成就するために必要な一つの #手段 として生まれてきたのが #宗教 であるとするならば、

 あらゆる #宗教の目的 は、同一のものでなければならない。


しかし、それぞれの #宗教の使命分野 は、

 #民族 により、

あるいは #時代 によってそれぞれ異なるものであり、

 それに伴って、上述のごとき理由から、

その #教典 も各々異なるものとなってしまったので、

 #各種各様の宗教 が生まれるようになったのである。


すなわち、 #教典 というものは、

 #真理の光を照らしだすともしび のようなものであり、

周囲を照らすというその #使命 は同一であっても、

 それ以上に明るいともしびが現れたときには、それを機として、

古いともしびの使命は終わるのである。


 既に論じたように、今日のいかなる宗教も、現世の人々を、死の影の谷間より命の光のもとへと導き返すだけの能力をもっていないということになれば、

今や #新たな光を発する #新しい真理 が現れなければならないといえるのである。

 このような新しい真理のみ言がやがて与えられるということは、 #聖書 の中にも数多く記録されている(前編第三章第五節参照)。

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 それでは、その新しい真理は、いかなる使命を果たさなければならないのであろうか。


この真理はまず、既に論じたように、

 宗教が探し求めてきた内的真理と科学が探し求めてきた外的真理とを、統一された一つの課題として解決し、

それによってすべての人々が、内外両面の無知を完全に克服し、

 内外両面の知に至ることができるようなものでなければならない。


また、堕落人間をして、邪心が指向する悪への道を遮り、

 本心の追求する善の目的を成就せしめることによって、善悪両面への指向性をもっている人間の矛盾性と、

前述のような、宗教人たちが当面している修道の生活の矛盾性とを、克服できるようなものでなければならない。


 堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、

また蘇生のための力でもある。


 そして、無知は死の影であり、

また破滅の要素ともなるのである。


 無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。


また、無知と無情緒からはいかなる意志も生ずることはできないのである。


 人間において、知情意がその役割を果たすことができなくなれば、

そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない。


 人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、

神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。


 しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。


ましてや神の心情についてはなおさらである。


 それゆえ、この新しい真理は、

神の実在性に関することはいうまでもなく、

 神の創造の心情をはじめとして、

神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。

 

 善と悪との二筋道を指向する人間たちの相克をはらんだ生活によって形成されてきた人類歴史は、

ほとんど闘争に明け、

 闘争に暮れてきた。


その闘いは、財物を奪いあい、土地を奪いあい、人間を奪いあうなどの外的な闘争であった。

 しかし今日に至っては、このような外的な闘いは、漸次、終わりつつあるのである。


そして、民族を差別せず、一つの所に集まり、一つの国家をつくり、

 今日においてはむしろ戦勝国家が植民地を解放し、彼らに列強と同等な権限を賦与して、

国連加盟国とすることによって、みな等しく、世界国家の実現を企図しているのである。


 のみならず、不倶戴天の国際関係さえもが、一つの経済問題を中心として緩和され、更に一つの共同市場体制を形成していくという実情にある。


特に今日の文化面においては、各民族の伝統的な異質性を克服して、東西両洋の距離を越えて、何らの障害もなしにお互いが交流しあっているという実情である。


 しかし、我々の前には、避けることのできない最後の闘いがまだ一つ残っている。

それは、とりもなおさず、民主主義と共産主義との内的な理念の闘いである。

 彼らはお互いに恐怖すべき武器を準備して、外的な闘いを挑んではいるが、実際のところはこの内的な理念の闘いに勝利するために、心ならずもこれらの外的な武器を用いているにすぎないのである。


 それでは、この最終的な理念の闘いにおいて、どちらに勝利がもたらされるかといえば、神の実在を信ずるすべての人は、だれしもそれは民主主義だと答えるであろう。

 しかし、既に論じたように、今日の民主主義は、共産主義を屈伏せしめ得る何らの理論も実践力ももちあわせてはいないのである。


ゆえに、神の救いの摂理が完全になされるためには、

 この新しい真理は

今まで民主主義世界において主唱されてきた唯心論を新しい次元にまで昇華させ、唯物論を吸収することによって、

 全人類を新しい世界に導き得るものでなければならない。


同時にまた、この真理は、有史以来のすべての主義や思想はもちろんのこと、

 あらゆる宗教までも、一つの道へと、完全に統一し得る真理でなければならないのである。

 

 人間が宗教を信じようとしないのは、

神の実在と来世の実相とを知らないからである。


 いかに霊的な事実を否定する人であろうと、それらのことが科学的に証明されるならば、信じまいとしても信じざるを得ないのが人間の本性である。


また、現実世界に人生の究極の目的をおく人々は、だれしも、最後にはむなしさを味わわずにはいられない。


 これまた人間の天性の発露であり、何人といえども避けることのできない感情である。


それゆえ、新しい真理によって、

 神を知るようになり、

霊的な事実に直面して、

 人生の根本目的を現実世界におくべきでなく、

永遠の世界におかなければならないということを悟るとき、

 だれしもがこの一つの道を通じて、一つの目的地に歩み、そこで一つの兄弟姉妹として、相まみえるようになるのである。

 

 それでは、全人類が、一つの真理により、一つの兄弟姉妹として、一つの目的地において、相まみえるようになるとすれば、

そこにおいて築かれる世界とは、どのような世界なのであろうか。


 この世界こそ、悠久なる歴史を通じて、人生の両面の無知から脱却しようと身もだえしてきた人類が、

その暗黒から逃れでて、新しい真理の光の中で相まみえ、一つの大家族を形成していく世界なのである。


 ところで、真理の目的は善を成就するところにあり、

そしてまた、善の本体はすなわち神であられるがゆえに、

 この真理によって到達する世界は、

あくまでも神を父母として侍り、

 人々がお互いに兄弟愛に固く結ばれて生きる、

そのような世界でなければならないのである。


 自分一人の利益のために隣人を犠牲にするときに覚える不義な満足感よりも、

その良心の呵責からくる苦痛の度合いの方がはるかに大きいということを悟るときには、

 決してその隣人を害することができないようになるのが人間だれしもがもつ共通の感情である。


それゆえ、人間がその心の深みからわき出づる真心からの兄弟愛に包まれるときには、

 到底その隣人に苦痛を与えるような行動はとれないのである。


まして、時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神御自身が父母となられ、

 互いに愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、

そのような行動をとることはできない。


 したがって、この新しい真理が、

人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、

 罪を犯そうとしても犯すことのできない世界となるのである。


今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、

 実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、

実感を伴うものではなかったからである。


 神が存在するということを実感でとらえ、

罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、

 そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。


罪のない世界がすなわち天国であるというならば、

 堕落した人間が長い歴史の期間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ、

この天国でなければならないのである。


そうして、この天国は、地上に現実世界として建設されるので、地上天国と呼ばれるのである。

 

 ここにおいて、我々は、

神の救いの摂理の究極的な目的が、地上天国を建設するところにあるという結論を得た。


 先に、人間が堕落しているという事実と、この堕落が、人間創造以後に起こったことでなければならないという事実を明らかにしたが、

今、我々が神の実在を認識した立場から見ると、

 人間始祖が堕落する以前、創造本然の世界において、

神が建設されようとした世界が、いかなるものであったかということに対する答えは、自明だといわなければならない。


 そのことに関しては、前編第三章において論ずるはずであるが、

その世界こそ神の創造目的が成就されるところの地上天国なのである。


 しかし人間は、堕落することによってこの世界をつくることができず、罪悪世界をつくり、無知に陥ってしまったために、

堕落した人間は、長い歴史の期間をかけて、

 内外両面の真理を探し求め、

無知を打開しつつ、

 善を指向し、

絶えず神の創造本然の世界である地上天国を渇望してきたのである。


 我々は、ここにおいて、

人類の歴史は、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるという事実を知った。


 したがって、その新しい真理は、

堕落人間が、その創造本然の人間へと帰っていくことができるように、

 神が人間をはじめとして、この被造世界を創造されたその目的はいったい何であったかということを教え、

復帰過程の途上にある堕落人間の究極的な目的が、いったい何であるかということを知らしめるものでなければならない。


 また、人間は果たして聖書に書かれているように、

文字どおり、善悪を知る木の果を取って食べることによって堕落したのであろうか、

 それとも、もしそうでないとすれば、堕落の原因はいったいどこにあったのであろうか。


完全無欠であるはずの神が、

 いったいどうして堕落の可能性のある人間を創造され、

全知全能の神が、彼らが堕落するということを知っていながら、どうしてそれを食い止めることができなかったのか。


 また神はなぜその創造の権能によって、

一時に罪悪人間を救うことができないのであろうか等々、


 実に、長い歴史の期間を通じて思索する人々の心を悩ませてきたあらゆる問題が、完全に解かれなければならないのである。

 

 我々が、被造世界に秘蔵されている科学性を調べていくと、

それらを創造された神こそ科学の根本でなければならないと推測されるのである。


 ところで、人類歴史が、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるということが事実であるならば、

かくのごとくあらゆる法則の主人であられる神が、

 このように長い復帰摂理の期間を、何らの計画もなしに無秩序にこの歴史を摂理なさるはずがない。


それゆえ、

 人類の罪悪歴史がいかに出発し、

いかなる公式的な摂理過程を経、

 また、いかなるかたちで終結し、

いかなる世界に入るかを知るということは、

 我々にとって重要な問題とならざるを得ないのである。


それゆえ、この新しい真理は、これらの根本問題を、一つ残らず明白に解いてくれるものでなければならない。


 これらの問題が明確に解明されれば、

我々は歴史を計画し導いてこられた何らかの主体、すなわち、神がいまし給うということを、どうしても否定することはできなくなるのである。


そうして、この歴史上に現されたあらゆる史実が、

 とりもなおさず、堕落人間を救おうとしてこられた神の心情の反映であったということを悟るようになるに相違ない。

 

 またこの新しい真理は、

今日の文化圏を形成する世界的な使命を帯びているキリスト教の数多くの難解な問題を、明白に解いてくれるものでなければならない。


 知識人たちは、ただ単純に、イエスが神の子であり、人類の救い主であられるという程度の知識だけでは、到底満足することができないので、この問題に対するより深い意味を体得するために、今日まで、神学界において、多くの論争が展開されてきたのである。


 それゆえ、この新しい真理は、神とイエスと人間との間の創造原理的な関係を明らかにしてくれるものでなければならない。


のみならず、今まで難解な問題と見なされてきた三位一体の問題に対しても、根本的な解明がなくてはならない。


 そうして、神が人類を救うに当たって、何故そのひとり子を十字架につけ、血を流さねばならなかったのかという問題も、当然解かれなければならないのである。


更に加えて、イエスの十字架の代贖によって、明らかに救いを受けたと信じている人々であっても、

 有史以来、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国へ行けるような罪のない子女を生むことができなかったという事実は、彼らが重生した以後においても、それ以前と同じく、原罪が、その子孫にそのまま遺伝されているという、有力な証拠とならざるを得ないのではなかろうか。


 このような実証的な事実を見るとき、十字架の代贖の限界は果たしてどのくらいまでなのかということが、大きな問題とならざるを得ない。


 事実、イエス以後二〇〇〇年にわたるキリスト教の歴史の期間を通じて、

イエスの十字架の血によって完全に赦罪することができたと自負してきた信徒たちの数は、数え尽くせないほど多かった。


 しかし実際には、罪のない個人も、罪のない家庭も、罪のない社会も、一度たりとも存在したことはなかったのである。


のみならず、先に論じたように、年月がたつに従って、キリストの精神は次第に衰微状態に陥っていくということが事実であるなら、


 今まで我々が信じてきた十字架の代贖と、完全なる贖罪との間に、結果として現れた事実の面で不一致があるというこの矛盾を、いったい何によって、またいかに合理的に説明することができようか


 等々、我々を窮地に追いこむ難問題が、数多く横たわっているのである。


それゆえに、我々が切に待ち焦がれている新しい真理は、これらの問題に対しても明確に解答を与え得るものでなければならないのである。

 

 また、この真理は、イエスがなぜ再臨しなければならないのか、


この再臨は、いつ、どこで、いかになされるのか、


 またそのときに、堕落人間の復活はどのようにしてなされるのか、


天変地異が起こり、天と地とが火によって消滅すると記録されている聖書のみ言は、いったい何を意味するのか等々、


 象徴と比喩によって記録されている数多くの難問題を、

かつてイエス御自身が直接話されたように、例えをもってではなく、

 だれしもが共通に理解できるように、「あからさまに」解いてくれるものでなければならない(ヨハネ一六・25)。


このような真理であってこそ初めて比喩と象徴によって記されている聖句を、各人各様に解釈することによって起こる教派分裂の必然性を止揚し、それらを統一することができるのである。

 

 このように、人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、

いかなる教典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるものではない。


 それゆえ、聖書に「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と記されているように、


この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである。


 それゆえ神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、

一人のお方を遣わし給うたのである。

 そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である。


先生は、幾十星霜を、有史以来だれ一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる無形世界をさまよい歩きつつ、


 神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。


人間として歩まなければならない最大の試練の道を、すべて歩まなければ、人類を救い得る最終的な真理を探しだすことはできないという原理を知っておられたので、先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。


 そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである。

 

 ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、


今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。


 時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。

 

 暗い道をさまよい歩いてきた数多くの生命が、


世界の至る所でこの真理の光を浴び、蘇生していく姿を見るたびごとに、感激の涙を禁ずることができない。


 いちはやくこの光が、全世界に満ちあふれんことを祈ってやまないものである。